**大洗磯前神社楼門と東の鳥居。海から来るものを崇め、そして海そのものと真摯に向かい合う構図を示す**
海への想い
はじめて海から昇る御来光を拝んだのは、いつのことだっただろうか。
はっきり記憶に残っているのは、小学校6年生の時だった。その年の大晦日、除夜の鐘が鳴り出した頃に同い年の幼馴染であるジロチョーとデメチャンと待ち合わせ、近くにある諏訪神社へ初詣に出かけた。
篝火が焚かれた参道を通って、三々五々集まってくる近所の人たちに混じって子供たちだけ三人で深夜に歩いていると、少し大人になったような気がした。
お参りを済ませて、参道を戻る途中、「初日の出見に行くか」と言い出したのは、ぼくだったか、あるいは隣の家に住むジロチョーだったか…その一声にみんなが頷いて、初日の出遠征が決まった。
いったん帰宅して、2時間あまり仮眠をとってから出かけようと約束したが、子供たちだけで夜の寂しい道を海まで遠征するという「冒険」を想像すると興奮してしまって、結局、一睡もできなかった。
夏にはラジオ体操の会場になる近所の野原に集まってみると、ジロチョーもデメチャンも眠れなかったようで、三人とも眠い目をこすって欠伸ばかりしていた。
海まではいくつか谷を越え、人家の絶えた森を抜け、さらに広大なスイカ畑を突っ切って10kmあまりある。野球帽にマフラー、着膨れしたジャケットに毛糸のミトンといういでたちでそれぞれの自転車にまたがり、月明かりに青白く輝く霜の降りた道を辿りはじめた。
凄愴とした月明かりの世界は、人が寝静まった後に息を潜めていた様々なものが蠢きだす鬼太郎たちの世界のように思え、ぼくたちは無意識に肩を寄せ合って、団子のようになって進んでいった。
夏には泥に浸かってどじょうすくいをする小川が流れる谷を越えると、狭い道は、両側から木々がのしかかる森に飲み込まれる。夜道の恐怖はさらに増して、自然にペダルに乗せた足に力が入る。置いてけぼりにされるのが怖くて、競争のようになっていく。
その森の外れには、何の儀式に使うのか、杉の大木に身の丈3mもある天狗が縛りつけられていた。縄で編まれた胴体に着せられた布は風化して、いつも風にはためき、その上に全長の半分もある大きな木彫りの顔が載せられている。その天狗は子供たちにとっては昼間でも恐ろしい存在で、そばを通るときは、目を背け、大声を上げながら走り抜けた。天狗の場所に近づいてくると、三人の自転車のスピードが一斉に落ちた。誰かが「帰ろうか」と言えば、ぼくたちの冒険はここであえなく終了しただろう。でも、誰もそれを口にしなかった。そのかわり、この恐怖の場所を一刻も早く駆け抜けようと、焦ってペダルを漕ぎはじめた。
ちょうど、天狗の前に差し掛かった時、ジロチョーが「ヒャーァッ」と、爆発しそうに膨らんだ肺から情けなく空気が漏れたような悲鳴をあげた。それをスタートの合図とするように、三人は他の二人に遅れまいと、ありったけの力を出して自転車を漕いだ。デメチャンもぼくも、ジロチョーと同じように声にならない悲鳴を上げ、一目散に天狗から遠ざかろうと、心臓が破裂しそうなほど喘ぎながらペダルを漕いだ。最後尾になってしまったら、あの天狗に捕まって、頭からムシャリと食べられてしまうと本気で思っていた。
三台の自転車が狭い道いっぱいに並んで、息の抜けた悲鳴を上げながら進んでいく姿は、傍から見れば、天狗よりよほど不気味だったはずだ。
そのまま、ぼくたちは誰も天狗に食われることなく森を抜けた。
不思議の国のアリスがスポンとうさぎ穴から別の世界に飛び出したように、広大な平原にぼくたちは飛び出した。そこは、スイカ畑で、冬場は砂地の広大な平原になっている。海へと向かう道は遮るものの何もない景色の中を一直線に伸びている。東の空は白みはじめ、夜明けが間近なことを伝えている。ぼくたちは急に余裕を取り戻して、誰の悲鳴がいちばん情けなかったと言い合いながら、地平線まで伸びる道を走っていった。
当時の鹿島灘は、潮が引くと、海岸の端から波打ち際まで100m以上もひろがる砂浜となった。海岸段丘も同じくらい広く、低い丈の松林が茅で編まれた砂避けの柵で格子に仕切られてどこまでも続いていた。
もう、今にも水平線から太陽が顔を覗かせそうで、あたりの景色がはっきりと見えるようになっていた。夜と朝の狭間で風が止まり、冬の太平洋にしては珍しい凪いだ海に、静かな波音だけが響いている。ぼくたちは海岸段丘の上に横並びに座って、初日の出と向かい合った。三人とも無言で、しっかりとその太陽を見つめていた。 海の景色は見慣れていたが、その見慣れた海から太陽が昇ってくると、初めて訪れた土地のように、何故か新鮮に感じられた。そして、日々、太陽がこうして生まれてくるということが、奇跡であるように感じられた。
ぼくたちは、それまで経験したことのない満足感を味わいながら、空を昇っていく太陽とともに、やってきた道を引き返していった。帰り道では、何故かあの天狗が怖くなくなっていた。
高校に上がると、ぼくはすぐに二輪の免許を取った。自由な交通手段を手にすると、頻繁に海に出かけるようになった。授業のはじまる前に夜明けの海に行くこともあった。
いつも、一人で砂丘に腰を下ろし、飽きることなく海を眺めていた。
南北80kmにも渡って弓なりの砂浜が続く鹿島灘のちょうど中間あたりが、故郷の大竹海岸になる。ここから海を眺めると、地球の丸さを反映して水平線が緩く弧を描いて見える。
自分が地球という丸い星の上に立っていると思うと、海の向こうの世界が意外に身近に感じられた。また逆に、太陽や星の動きを見ていると、宇宙が広大無辺であるということが実感できた。
肉親や親しい友だちを失ったとき、いつものように海辺に佇んで、広大な景色と向き合い、打ちせよる波音を聞いていると、亡くなってしまった者たちの魂と交感できるような気がした。地球上での肉体は失われてしまったけれど、変わらない宇宙の中にはどんな形であれ魂が存在していて、それを感じられると思った。故郷の海は、いつでも無条件に安らぎを与えてくれた。
高校を卒業して東京に出ると、思い立ったらすぐに故郷の海へ足を運ぶということはできなくなってしまったけれど、帰省すると、必ず一度は海へ行った。 だが、その海も年々変わっていってしまった。
広大な海岸は砂が沖に攫われて痩せ細り、松林まで侵食されていった。狭くなってしまった海岸には漂着ゴミが打ち寄せ、そのまま放置されている。
砂浜が痩せてしまうのは、海岸に砂を補給していた河川の上流にダムが出来て、砂が供給できなくなったり、港湾開発で沿岸の流れが変わって、戻される砂がなくなってしまったからだと言われる。ゴミは、漁網や産業廃棄物、さらに沖合を航行する船から捨てられたハングルや中国語の書かれた生活ゴミが目立つ。小学校6年生のあの日に、ぼくたちを優しく迎え入れ、宇宙を実感させてくれた海が、人間のエゴでどんどん汚されていくのが、たまらなく悲しかった。
そして、昨年。それまでじっと黙っていた海が、311に牙を剥いた。
故郷では津波の被害はほとんどなかったものの、地震の被害は大きく、一週間以上も交通網もインフラも寸断された。ようやく交通網が回復した3月20日に故郷に帰省した。市街地の建物の三分の一が全半壊の被害を受け、間道はまだ復旧できていないところも多く酷い有様だった。
翌21日、帰省した時のいつもの例に習って、海岸へ日の出を見に出かけた。
白々と夜の明けはじめた空の下、海岸は黒々とした瓦礫の影で埋め尽くされていた。そして、いつもの爽やかな潮の香りとは違う異様な匂いが満ちていた。酸化した油の匂いに、腐りかけた魚の生臭さと、さらに解体された古屋の埃っぽさのようなものが混ぜ合わさった感じで、激しい戦闘が終わったばかりの戦地に一人取り残されでもしているような気分になった。
だが、水平線を割って太陽が姿を見せ、海上を真っ直ぐ伝って光が届き、日の暖かさを全身で感じた時、ジロチョーとデメチャンと三人でここへやってきて初日の出を拝んだあの瞬間が蘇った。変わり果ててしまった海岸と、何も変わらない太陽の暖かさ。そして、何事もなかったかのように凪いだ海。災害の犠牲となった人たちへの鎮魂、人智の及ばない途方ない力を見せつけた自然への畏怖、恵みをもたらす自然への感謝、手に負えないものを作り出し、自然を破壊した報いを受けたことへの悔恨…様々な気持ちが入り混じったまま、どうしようもなく手を合わせるしかなかった。
古来、海から神がやってきて上陸したとされる場所がある。四方を海に囲まれた日本には、そんな場所が数知れずある。聖地を巡るフィールドワークを続けてきて、神が海からやって来たという伝説に基づいた祭りにもたくさん出会ってきた。そんな祭りは、すべて海がもたらしてくれた恵み(海そのものからの恵みと同時に海が運んできた神々も含めて)に感謝する単純な祭りとしてとらえていたが、311を経験し、その無惨が横たわる海岸を見て、古来の海への信仰は、津波という荒ぶる神への祈りも含まれていたことにようやく気づいた。
**伊勢二見浦。ここでは夏至の朝日を天孫降臨に見立てた儀式が行われる**
海から来るもの、海へと解き放つもの
海の彼方から神がやってきて、その地を開闢したという伝説を持つ神社は数多い。拙著『レイラインハンター』でも紹介したが、伊勢の二見浦では夏至の夜明けに太陽を迎える儀式が行われる。岸辺の輿玉神社で茅の輪を潜り、お祓いを受けた善男善女が海に入って夫婦岩と差し向かう。すると、太陽は夫婦岩のちょうど真ん中から昇ってくる。これは、日本神話の『天孫降臨』のエピソードをそのまま写しとったものだ。
天照大御神の命を受けた瓊瓊杵尊(ニニギノミコト=天皇家の皇祖神)は、地上を支配するために天から降臨する。その際、国津神(元々地上を支配していた神)である猿田彦命が瓊瓊杵尊を途中まで出迎えに行くのだが、岸辺にある輿玉神社の祭神が猿田彦命で、夫婦岩の間から登った夏至の朝日は、真っ直ぐ輿玉神社の中心に射しこんでくる形になっている。また、今では空気が汚れて目視できなくなってしまったが、かつては、富士山の後ろ側からこの夏至の朝日が昇ってくる光景が見られたという。富士山は女神木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)の山であり、木花咲耶姫命は瓊瓊杵尊の妻だから、ここでは夫婦で地上に降臨し、それを猿田彦命が迎えに行くという構図が正確に描かれている。さらにこの夏至の太陽の光は、そのまま真っ直ぐ伊勢内宮へと導かれていく。
茨城県の鹿島神宮には、本殿から北東へ3.7km離れた海岸に、東一の鳥居があり、ここは鹿島神宮の祭神武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が上陸したと伝えられる。武甕槌命は天照大御神の命を受け、地上を支配していた国津神の首領である出雲の大国主神に地上を譲るように迫った神で、日本神話の『国譲り』のエピソードに登場する。
大国主神は武甕槌命の要求に従って、自らが開闢した地上を天照大御神の一族である天孫に譲ることを同意するが、大国主神の次男である建御名方命(タケミナカタノミコト)は反対し、武甕槌命と戦いになる。だが、建御名方命は戦いに破れて、敗走先の諏訪に落ち着くことになる。鹿島神宮の参道は真っ直ぐ西へ伸びているが、その延長上には建御名方命が諏訪で最初に落ち着いたとされる諏訪大社上社前宮がある。東西の同じ緯度にあるということは、真東から太陽が昇る春分と秋分の日には、鹿島神宮の参道を真っ直ぐ駆け抜けた朝日が諏訪まで伸びいてくことになる。武甕槌命はいまだに建御名方命を春分と秋分の朝日が結ぶ線上から睨み据えているわけだ。
**鹿島神宮東一の鳥居。ここから武甕槌命が上陸したと伝えられる**
余談だが、311の震災からちょうど一ヶ月経った4月11日、鹿島神宮の海に面した東一の鳥居の近くに諏訪大社の御札が流れ着いて、地元ではちょっとした騒ぎになった。幅20cm、高さ130cmの立派な木製の札で、諏訪大明神祈祷神璽の文字が墨書されていた。発見されてから10日後、鹿島神宮の神職によって丁重に運ばれ、諏訪大社に納められた。
鹿島神宮は朝廷の東国侵攻の最前線基地としての役割も持っていた。「鹿島立ち」という言葉があるが、これは防人の兵士たちが任地へ旅立つときに鹿島神宮の祭神武甕槌命に武運長久を祈った故事に由来する。国譲りを成功させた武甕槌命は、次に東国征伐のために派遣され、鹿島に落ち着いた。そして、ここから蝦夷の土地である東国、北に広がる土地と対峙した。だから、鹿島神宮の本殿は北を向いている。
鹿島神宮本殿が向いた先には、大洗磯前神社、酒匂磯前神社が南北に並んでいる。いずれの磯前神社も祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)。大己貴命とは大国主神の別名だが、この神も海からやってきて、上陸したと伝えられる。両磯前神社とも、海岸に一の鳥居が置かれ、海からやって来る神を迎える儀式が伝えられている。
このほかにも、鹿島神宮より北の太平洋岸では、大国主神=大己貴命を開闢神とする神社が多く存在する。そして、津軽海峡を日本海側に抜けた沿岸も能登半島の袂にある氣多大社あたりまで、多く点在している。これは、大国主神を祭神とする出雲族が、遥か西南に位置する出雲を出発し、日本海を北上してところどころに上陸していったこと、さらに津軽海峡を太平洋に出て、天照大御神の勢力圏である鹿島神宮付近まで南下してきたことを物語っている。
大国主神が大己貴命と名乗る際には、少彦名命(スクナビコナノミコト)とセットで語られることが多い。少彦名命は、出雲で盛んであったたたら製鉄の際に炉から立ち上る火の粉が神格化した神であるとされる。大己貴命と少彦名命が上陸したという伝説は、古代製鉄の技術を持った出雲族がその地に上陸し、技術を伝えたことを物語り、彼らが神格化されて祀られていると解釈できる。
出雲から日本海側を北上して、能登までの間は、独自の神を祭る神社のほうが多い。それは、丹波や若狭が大陸から朝鮮半島を伝ってやってきた渡来民の上陸地点で、たぶん先に出雲族の痕跡はあったが、それを渡来民の文化が塗り替えたものと考えられる。
若狭の開闢神である若狭彦・若狭姫の二神は、少年少女の姿のままずっと変わらず、不老不死であったという。大陸からは、伝説上の話では秦の始皇帝の命により、東の国へ不老不死の妙薬を求めて派遣された徐福をはじめとして、数多くの僧がこの周辺に上陸した。彼らは中国古来の錬丹術を身につけていた。錬丹術は、その最終的な目的である不老不死を実現することはできなかったが、不老不死の妙薬を求める過程で、今でいう漢方処方のトライアルを重ね、生薬処方や生薬の栽培についてのノウハウを確立していた。そうした薬効体系のノウハウを持った渡来民たちは、地元の人間からすれば神に見えただろう。
2003年茨城県の北部沿岸から内陸を舞台に『金砂磯出大田楽』という祭りが開催された。72年に一度、内陸の山の中にあるある東金砂神社、西金砂神社それぞれの神社からご神体を入れた神輿が担ぎだされ、海へと運ばれて、新しいご神体と入れ替えられて再び本社に帰するという神事で、500人を越える行幸の列が1週間かけて本社と海の間を往復する。
一生に一度しか見られない祭りとして、全国から100万人以上もの観光客が訪れて、この行幸を見物した。
東西金砂神社のご神体は、九つの穴を持つ黄金の鮑と伝えられる。鮑が黄金であり、それが山奥の神社に安置されていることは、鉱物資源を連想させる。一方、九という数字は不老不死を連想させる。中国では、古代の地理書『山海経』に始まり、数々の歴史書に九尾の狐が登場する。一万年も生きた狐が妖狐となり、九つの尾がその証になるのだという。中国では瑞獣とされ、それが日本に伝えられると九尾の狐が絶世の美女に化けた「玉藻の前」の逸話のように変化する。そんなことから、九というマジクナンバーを属性として備える生物は、不老不死であるとみなされる。金砂神社のご神体である黄金の九穴鮑は、たたら製鉄の技術とその原料を発見して掘り出す鉱山技術に長けた出雲族がここに上陸し、有力な鉱山を発見したこと、そして大陸渡来の不老不死の思想がそこに混入していることを端的に表している。
ご神体の鮑は今の日立市の田楽鼻と呼ばれる海岸まで運ばれると、そこで田楽が奉納される。そして、その夜、神職の手によって神輿から出された鮑は人の目に触れないように白膜で囲われたまま、海の中に運ばれ、ここで新しいご神体と入れ替えられる。この祭りのクライマックスといえるこの場面では、肝心のご神体は限られた神職以外、目にすることはできない。許された者以外が間違って目にしてしまったら、その者は盲目となってしまうと伝えられている。
古代のたたら製鉄では、フイゴを踏み続ける職人が間近で熱い火を見続けるため、その側の目を盲いることが多かったという。ご神体の鮑を見ると盲いてしまうという言い伝えは、たたらにまつわるそんな話にも符合しているように思える。ちなみに、たたらの職人は、片足だけでフイゴを踏み続けるためにその足を故障してしまうことも多かったという。たたら製鉄はかつては許されたものだけに伝承される秘技で、人里離れた山の中で行われた。たまたま山中で里人が目と足を故障したたたら職人と出くわし、片目片足の妖怪だと思ったことから「一つ目小僧」というお化けが生まれたともされている。
海から神がやって来たという伝承を残す神社は、ここで挙げた以外にも数しれない。それぞれに、掘り下げると日本とアジアの深層に繋がる歴史が秘められているのだが、ここではこれくらいにしておこう。
**能登半島の袂にある氣多大社。ここも大己貴命と少彦名命を祭る神社で、太平洋側の金砂神社と同様の祭礼を伝えている**
**能登半島の先端近くに位置する須須神社。祭神は瓊瓊杵尊とされるが、古くは渡来系の高倉氏の氏神である高倉彦神が祀られていた**
**出雲大社のさらに西、日本海に面する日御碕神社。ここでは、東を向いた社殿に春分と秋分の日が真っ直ぐ差し込み、それを受け入れて、さらに西の海へと伝える構図が見られる**
海と向き合う神社の多くは、海からやってきて新しい技術や知識をもたらした人々を神として崇めていることがよく理解できる。だが、そうした神社では、神格化した人々だけを崇めているわけではなく、その神を運んできた海そのもの、海の神秘性をも同等に崇めている。
海が運んでくるものは、自分たちの生活や文化を向上させてくれた渡来人ばかりではない。時には、侵略者たちも運んできたし、311のような巨大な津波ももたらした。また、海は、日常的には日々の生活を支える糧をもたらす恵みの場でもある。
海岸に面した鳥居と向かい合い、その鳥居越しに風景を見やると、そこに、海の様々な性質を端的に感じ取ることができる。
一年のある特定の日には、その中から太陽が昇り、ふいにやってきて新たな文化をもたらす神がおり、その威光が続いていることを教えてくれる。鳥居の向こうに凪いだ海や魚に群れる海鳥を見れば、穏やかで恵み深い海への感謝を覚える。そして、鳥居の先で波が砕け散り、鳥居そのものすら押し流しそうな光景は、時に荒ぶる海と、侵略者を連想するだろう。鳥居の正面という定点に朝な夕なに立ち、鳥居が切り取る海の光景と向き合っていれば、「海」という存在に向かって、無心で手を合わせるのがあたりまえになっているだろう。
このシリーズの第一章で触れたように、神道の儀礼の際に唱えられる『大祓詞(おおはらいののりと)』では、この世に生を受けて存在することによって必然的に溜まってしまう穢れを、具体的な自然観を示して、そこに流し、解消していくプロセスが物語られる。
人が穢れを祓いに社に行けば、その社におわす神が受け取る。そして、社の神は川の神へとその穢れを手渡す。川の神はそれを海の神へと手渡す。海の神は、大きな口でそれを飲み込み、広大な海底へと沈めてしまう。その海底から、地下の国の入り口にいる神に手渡され、さらに地下の国の神が飲み込んで、広大無辺な宇宙に解き放つことによって、穢れは雲散霧消してしまう。
大祓詞の世界観は、リアルな自然のエコシステムである陸、川、海をそのまま表している。さらに、イメージとして宇宙(地下の国)との繋がりを明示する。 祝詞集を開き、大祓詞を唱えてみると、そこで語られる世界に引き込まれ、極々自然に宇宙的空間にまで運ばれていく。祝詞のイメージをしっかり咀嚼すれば、自分の自然界の中での位置がはっきりと理解でき、何を畏れ、何を大切にすればいいのかが自ずと見えてくる。
同じような感覚を理屈ではなく伝えてくれるのが、海と向き合う鳥居であり、さらにいえば、無心で海と向かい合うことであるのかもしれない。
海と向かい合う時、ぼくは、いつもあの小学校6年生の時の小さな冒険を思い出す。
無垢の心を持ったあの頃のぼくたちは、海と向き合うことで、自分たちが宇宙に含まれているということを何の苦もなく感じ取っていたのだ。
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